こんにちは!
ろんじえぱぱです!
現在の私の娯楽時間はブログ以外の残りほぼ全ての時間を本やYoutubeなどを通じて知識に触れることに費やしています。
テレビやニュースなどは仕事から帰宅後の夕食の時間などで済ませ、特に見たい番組がなければ、見ることはなくなりました。
夜は12時に就寝と決めてますので、ブログを書かなければ、時間ぎりぎりまで読書をしています。
今回はこれまで40年間、教科書以外は一冊も本をまともに読まなかった私が、なぜ突然こうも変わってしまうほどの知的探求の魅力についてお話しします。
知識は身につけられるアプリである
私自身をスマホのOSに例えてみると、これまでの40年で私のOS内に入っているアプリは私の『人生経験』というアプリのみでした。
アプリのないスマホは魅力がない
これまでの人生は私の『人生経験』アプリのみを使って遭遇するあらゆる出来事を対処してきていました。
反面、毎日の生活はほぼ変わりませんでした。
家庭、仕事、時折旅行、毎日が同じことの繰り返しで、そのアプリは私に何も変化をもたらそうとはせず、ただ毎日の安定をよしとするアプリでした。
安定した生活はいつしか挑戦や成長から目を背けるようになります。
体は太り始め、生活は怠惰になり、家庭の夫という地位のみが私のブランドを支えるのみで、他には何の魅力もない人物へと知らずに成り下がっていたのです。
そしてついに『人生経験』アプリも始めて対処できない出来事が起こりました。
娘の自閉症と父の死、母のうつ病。この3つが同時併発的に起こり、私の『人生経験』アプリは機能不全を起こしたのです。
そこで私はワラにもすがる思いで、学生以来初めて本を読み始め、人生経験以外に知識を求め始めたのです。
アプリが増えてスマホが魅力的になる
スマホやPC,ゲームのハードウェアはよく「箱もの」と言われます。
いくらハードウェアがよくてもソフトやアプリがなければ、その本体がいくら機能が優れていても魅力を感じません。最新のスマホも魅力は結局アプリに依存しています。スマホはアプリなしでは全く魅力がないのです。
人もまた同じと考えます。
実際、『人生経験』アプリだけの知識では、私の人生で突如として起こった数々の試練に立ち向かうだけの力を授かることができませんでした。
しかし周りを見渡すと、その魅力的な『知識』というアプリは実はそこらじゅうに埋まっていたのです。
今では本のみならず、ネットで動画や名言など、ありとあらゆる世界最高の知や情報に触れることができる豊かな時代。
これまで人生経験アプリに頼りっぱなしだった私がただ気付かなかっただけだったのです。
知識というアプリをどんどん自分というOSに取り込んで、人生に合わせてカスタマイズすることで、自分自身を輝き、魅力が増えていくことにきづきました。
流行はすたれるが知識はすたれない
私がこれまでネットやテレビで見ていたのはトレンド、芸能やニュースなど消費系の情報でした。
消費系の情報は常に最新で刺激的。人を常に飽きさせることはありません。
新しい流行や事件、芸能、スキャンダル、これらに共通するのは人の脳を興奮させる『刺激』です。
情報に常に植えている私たちはテレビやネットを通じて供給される『刺激』を求めて今日もネットサーフィンをして一日が終わる生活を繰り返しています。
確かに世の中の動きを見る上でニュースを見ることは必要でしょう。しかし芸能やトレンドなどを常に追いかけていても、その中のいったい何%が自分のための知識として残っているでしょうか。
刺激を求めて何も残らない生活を毎日は『消費の毎日』と一緒です。
毎日が何も変わらなければ確かに平穏で安定な生活ですが、そのような生活を続けた私はとても大事なものが失われました。
それは『成長』という人生を豊かにするドライバーです。
なぜ子供が毎日楽しそうにしているのか?なぜアスリートは輝いているのか?
全てそこに『成長』があるからです。
『知識』は消費財ではありません。流行とも無縁です。それほど刺激的ではないかもしれません。
が、しかし確実に私たちの手元に残り、何年経とうが色あせることがない人生を豊かにする種です。
何年も私たちの思考の糧となって残り、積み重ねによる自身の成長によって人生の本当の豊かさをもたらす、それが『知識』なのです。
知識が増えれば人生が豊かになる
本やネットで得られる知識や知恵はこの世にあまた存在する人がその人の人生をかけて抽出した栄養素です。
勉強は受動的学習
なぜ私がこれまで本を一冊も読まなかったか。そのひとつに受験時代の『勉強』のトラウマがあります。
大学の合格通知を受け、翌日に教科書全てを火にくべて燃やした時にはついに勉強地獄から解放された感激であふれていたのを今だに思い出します。
『勉強』という言葉は私にとって受け身の行為でした。
良い点を取って両親に好きなゲームソフトを買ってもらう喜び、友達にテスト点数で打ち勝つ優越感、親の喜ぶ顔、すべては自分以外のために無理して行ってきた行為でした。
強制的な行為は必ずストレスホルモン『コルチゾール』が生まれます。常にいい点数を取るというストレスに追われ、勉強自体に喜びは感じられませんでした。
「受験終わればすべて解放される」という希望だけを頼りに、無理やり美味しくないものを詰め込んでいたような状態でした。
そして合格と同時に全て詰め込んだものを吐き出したのです。
そのトラウマがもとで、社会人になってからも全く本を読まなくなってしまう後遺症が残ってしまう残念な結果となりました。
学びは能動的学習
『学び』は『勉強』と違い、自発的に能動的に行う行為と気づくまでは長年の時間がかかりました。
やる気ホルモン『ドーパミン』の働きによって自らの意志で、自分の時間を投じ、学ぶことを求めます。
『学び』には『勉強』にない開放性と積極性があります。まるで子供が毎日ワクワクしながら生きているように、知的好奇心を追いかけることは毎日をエキサイティングな日々に生まれ変わらせてくれました。
『いやいややる』か『わくわくしてやる』。毎日の積み重ねで差がついていくことは火を見るよりも明らかです。
ドーパミンについてはこちら
知識は固定概念を覆すことができる
私のこれまでの脳は旧式ののアップデートされてないOSと一緒。
知識というアプリを沢山取り込むことによって、私の脳のOSがどんどん刷新され、新しい考え方を受け入れていくようになりました。
これまでの『人生経験』のアプリと他の知識アプリを併用することによって、私の脳がこれまで対処できなかったトラブルや困難に対しても新しい切り口で事態を対処できるようになったのです。
正に人生観が変わった瞬間でした。
知識が増えればものの見方や考え方が変わる
知識は私の脳のOSを刷新してくれ、現在直面している困難に対しても新しい切り口や知恵を与えてくれます
いくら人生経験があると言っても所詮私の人生はたったの40年間、しかもサンプル数1にすぎません。
反面、本や名言で得られる知識は足元にも及ばない数多の偉大な人生送られた先人が残した凝縮した人生の栄養素です。
そのようなかけがえのない知識を多く取り入れることにより、これまでの人生を自分という『単眼』でなく知識による『複眼』で見ることができるようになります。
私たちが身の周りに起こる出来事全ては、必ずこれまで積み上げた思考を元に色眼鏡をつけて解釈します。
知識が増え、考えが豊かになれば、その思考を通して経験する人生も必然的に豊かで充実したものになります。
今私が直面している家庭の諸問題も、以前の私の脳のOSでは到底キャパオーバーでしたが、幾多の知識を仕入れた現在では、困難な状況下で何とか希望の光を見出せるように脳のOSがアップデートされています。
知識は盗まれず無限である
私たちの身の周りのものは常に変化に晒されて姿かたちを変えていきますが、私たちが取り入れた人生の知識は誰も奪い取ることができない永続的なものです。
この世にある知識は無限大。到底私の人生では追いつけないほどの膨大な量があります。
知識を自身の人生で知恵に変えることによって、誰も奪い取ることができないかけがえのない思考の宝になります。
最後に私が人生のどん底の時に偶然巡り合った2本の動画を紹介します。
私のどん底を救ってくれた神動画であり、今見返しても全く色あせない人生の知恵です。
ミャンマーで無償で治療を行う小児科医師、吉田秀人の名言
現代の情報化社会の不確実な未来を切り開く堀江貴文氏の名スピーチ
まとめ
知識は人生を豊かにする「私」という樹を育て豊かにする肥料であり、栄養です。
その知識という栄養を元に行動の枝が増え、行動の結果から『知恵』という行動の果実がもたらされます。
その知恵はまた思考の土壌に戻り、土を豊かにし、私を再び大きく成長させることができます。
知識は筋肉と同じ。常に私のそばにあり、特定の宗教を持たない私の拠り所となる信念を作り上げています。
そしてその信念を生涯にわたって磨き続けることが本当の意味での豊かな人生を送る秘訣と考えています。
私のブログから何か少しでも皆さんの考えの一助になれば幸いです。お読みいただきありがとうございました。
ろんじえぱぱ