【常識を疑え】「当たり前」より「ありがとう」を

こんにちは!
ろんじえぱぱです!

今日は茨城県大洗のアクアワールドに親子三人で行ってきました(*´ω`)

ペンギン 水族館

昨日は別居してから3カ月ぶりに親子三人で春節を祝って楽しく過ごし、今日は大洗に寿司と水族館目当てでやってきました。

元妻が訪れるようになって娘の表情も豊かになりましたし、私の手の届かないところを手伝ってくれるので、本当にありがたく感じています。

皮肉にも感謝を感じるようになったのは私自身がこの三か月間で育児を行い、その大変さを実感したからに他なりません。

それまでは育児はどうしても元妻任せになってしまい、恥ずかしながら女性の育児を「当たり前」な態度で見ていた自分がいました。

しかし今は育児の大変さを痛感します。毎日何かと精神疲労し全く当たり前じゃありません!

だからこそ娘の世話に戻ってきてくれた彼女に心から感謝することができますし、この小さな幸せを全力で守ると固く心に誓って毎日を過ごしています。

「当たり前」は「当たり前」じゃない

娘の自閉症の育児は言わば「ふつう」という当たり前の常識と戦ってきた歴史と言っても過言ではありません。

何度やってもできない、奇声を出す、言葉がでない、自傷行為、床に泣いて倒れる。

ふつうの子ができる「当たり前」を全く持ってできませんでした。当時は戸惑いと苛立ち、そして「ふつう」になれないんだという絶望感に打ちひしがれました。

その頃に始めて「当たり前」や「ふつう」という常識に疑問符を持ち始めたのを今でも覚えています。

また思い返せば、離婚に至るまでの信頼関係にひびが入り始めたのはやはり「当たり前」という感覚からです。

当時、元妻が専業主婦をしていたのをいいことに、自閉症の育児が如何に大変かを分からず、彼女にほぼ丸投げしていました。

私は専業主婦という「当たり前」に常識を縛られ、彼女が如何に苦労していたのか彼女の気持ちに思いをはせることができませんでした。

皮肉にもシングルファーザーとなってこの3か月間でいやというほどその苦労を思い知らされました。

当たり前はまったく当たり前でなかったのです! 今では彼女に感謝しかありません。

「当たり前」という名の思考停止

「そんなの当たり前だ!」というセリフをよく聞きますよね。

「当たり前」と言った瞬間にその人に向ける関心や注意を止めて、無理やり価値観を押し付けるような感覚になります。

相手の行為の細部やプロセスに目を向けることが面倒になった時に、はやく話を強引にまとめようとして「当たり前」という言葉を用いがちです。

しかし「当たり前」は言わば都合の良い思考停止。「当たり前」を連発していると相手の感情に対して無関心になっていき、いつしか嫌われる原因にもなりかねません。

「当たり前」の発言の原因は相手にあるのではなく、発言者自身の思考上の粗雑さと怠惰にその原因が隠されているのです。

「当たり前」に潜む認知バイアス

「当たり前」の源泉はその人が生まれ育った地域、環境、家庭の文化によって異なります。 私たちの「当たり前」は当然人によって違いまです。

しかし残念ながら私たちは常に自分が正しいと信じ、物事を単純化して見る脳内のプログラムコード「バイアス(偏見)」が埋め込まれています。

その代表例を認知バイアスと呼び、私たちが物事を判断する場合において、個人の常識や周囲の環境などの種々の要因によって非合理的な判断を行ってしまうことを指します。

「当たり前」の押しつけは、言わば個人の価値観の押しつけに過ぎません。「当たり前」を連発して相手の感情を無視し続けると、いずれ「理解してくれない人」というレッテルを貼られて関係に距離を置かれる危険性をはらんでいるのです。

「当たり前」は感謝を忘れる

「当たり前」の危険性は相手の感情や行為の過程をまるっきり無視し、感謝を忘れること。どんな思いでその人が行為を行ったかを考慮せず、たった一言でその感情を切り捨てれば、そこに感情のささくれやわだかまりしか残りません。

人は感情の生き物です。感情を無視することは無関心の現れ。愛の反対は無関心と言われます。あなたの大事な人の感情を「当たり前」の言葉で覆い隠していませんか?

「当たり前」 の反対語は 「ありがとう」

「当たり前」の反対語と聞いて何を思い浮かべますか?答えは意外にも「ありがとう」なのです。

ありがとうは、日本語で感謝を表す時に用いられる。
「めったにない」「めずらしい」を意味する「有り難し」という言葉が語源である。「ありがとう」は有難しの連用形「有り難く(ありがたく)」がウ音便化したものである

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia 』

家族、妻、友人、仕事仲間、毎日顔を合わせているといつしか有難みの感覚が薄れ、まるで無限にある水や空気のように感じがちです。

今一度周りの人を新たな気持ちで見つめ直してみませんか?みんなそれぞれ一生懸命生きています。そしてあなた自身も。

毎日同じようでありながら、色々な環境の変化に若干感情が変わりつつも皆何もなかったかのように過ごしています。

当たり前のように日々過ごしているように感じるようですが、自分自身に置き換えたら、決してそんな簡単な言葉で片付けることはできないはずですよね。

そう思ったら、今一度周りの人たちの当たり前の優しさに対して有難みを感じ、感謝の言葉をかけてみましょう。

「当たり前」 から 「ありがとう」 へ

前回のブログでは「ありがとう」の持つ力について心理面のみならず脳科学的にも有効であることを紹介させて頂きました。


感謝 人生 好転 ありがとう

私たちが離婚をした時、振り返ると結婚して11年が経過していました。10年を超えると感覚的にはお互いがいて「当たり前」の状態。

すでに有難みの精神はなく、お互いの存在に甘えて相手を批判したりするようなことが多くなってきたりしていました。

またこれまでの積み重ねたコミュニケーションがあまりうまく機能しておらず、私も色々な思いがありましたが、離婚を決意するまでは結局打ち明けられずにいた事案もありました。

「当たり前」の積み重ねはお互いから思いやりの心を奪い、互いの気持ちに無関心になり、終には互いに興味を失っていくという潜在的な危険性をはらんでいます。

皮肉にも自分自身で育児を行うことによって今までの「当たり前」の概念が解け、素直に元妻へ尊敬と感謝の気持ちが芽生えました。

それは私のみならず、母、元妻共々、この3か月間でそれぞれこれまでの「当たり前」を見直してこの3人が娘のために団結する意義を改めて確認した非常に有意義な期間でした。

お互いの立場を思い、各々ができる限りで娘のために協力する。

現在は結婚という「当たり前」の関係から切り替わり、お互いが自立しながらも、互いを思いやる新たな関係を模索して新たに構築し始めています。

まとめ

人生とは本当に不思議です。

思えば去年2019年の元旦に、その年の10月に私たちが離婚するなんて全く想像ができませんでした。

そして今年の1月下旬の春節にまた三人が集まって一緒に祝うなど、今年2020年の元旦には考えられなかったことです。

私も元妻もこの三か月間は色々思い悩み、娘の存在を大きさを改めて感じてより成熟した気持ちで今新たに関係を築き始めています。

これまでの結婚生活上の務めを当たり前と思わず、お互いを思いやる気持ち。

復縁とは至らずもお互いが娘を思い、この10年間共に戦ってきた戦友であることは変わりません。

「~して当たり前」という夫婦間で甘えていた概念を超えて、お互いが思いやりと感謝の気持ちを持ち、娘を中心とする「思い」だけで創り上げる関係をこれからも継続していきたいと強く思っています。

私のブログから何か少しでも皆さんの考えの一助になれば幸いです。お読みいただきありがとうございました。

ろんじえぱぱ

当たり前 ありがとう
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